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ふらっと立ち寄った85パーセントの人たちが満足し、友達に薦めたい、また読みたい、孫に朗読して聞かせたい、読むと髪の毛が増えた、肩こりが取れたと思えるような日記を目指して酒にタバコ、女性にギャンブルにと明け暮れる日々を綴ります。

秒速160キロメートルで飛ぶ遊星からの物体X

   

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教育


子供の頃の教育は本当に大事なものだと思います。
その幾つかのエピソードを映画ロッキーの挿入歌『Eye of The Tiger』に乗せてお送りします。
勝手に脳内で再生してください。

我輩がまだ小僧我輩だった時代、中学校で音楽のテストがありました。
小僧我輩の我輩は楽器というものがとんと苦手でしたが、中学校の音楽の時間では定期的にリコーダーのテストがありました。生徒ひとりひとりを前へと呼び出し、教師のピアノの伴奏に合わせて笛を吹くというものです。
教師が曲と共にテストの日を決めているにも関わらず、我輩の何事も後回し後回しの精神が災いし、リコーダーの練習をまったくしません。当然、テスト当日も、リコーダーからは気の抜けたメロディがピーヒョロロと流れるだけです。

しかし、これは我輩だけを責められることでしょうか?否!決して世界も世間も音楽の教師も我輩だけを責めることはできません。何が悪いかと問われれば、それは『教育』が悪いのです。
我輩の家では、夜中に笛を吹くと蛇が出る、というお婆ちゃんの知恵袋的な理由から夜にリコーダーの練習をするという行いが御法度だったのです。その御法度を施行したのは両親です。
いまだに我輩は、なぜ夜中に笛を吹くと蛇が出るのか、そして蛇が出たからって一体どうなるのかも分かりませんが、そういう教育を受けました。この時点で我輩にはリコーダーの練習という項目で他の生徒たちよりもかなりのアドバンテージを負っているわけです。

夕方や休日の昼に練習すればいいじゃないか!と思われる方もいると思いますが、それは暴論というものです。木を見て森を見ない理論、宇宙書割論、パンがなければケーキを食べればいいじゃない理論です。宇宙の調和を乱し、この世に無法と腐敗をもたらす論理だと断ずるに、些かの躊躇も禁じえません。

当然、音楽的素養もない練習もしていない小僧我輩は音楽の教師に諌められます。
なぜ練習をしてこないの?至極ごもっともです。ですが、いいですか、ですが、蛇が出るのです。夜中に笛を吹くと蛇が出るということを告げると、音楽の教師はクエスチョンマークを浮かべます。なんという教養のなさ!我輩は辟易します。いいですか、先生、いいですか、夜中に笛を吹くと蛇が出るんですよ!
だからそれは何なの?至極ごもっともです。言いたいことは分かります。ですが、そんなことは我輩にも分かりません。ただ、夜中に笛を吹くと蛇が出るということです。そしてきっと、夜中に笛を吹いても蛇はきっと出ないということも重々承知しています。分かっているんですよ、先生、そんな目で我輩を見ないで!我輩は可哀相じゃない!可哀相でもなければ、我輩の脳も神秘の異世界カルボナーラとリンクもしていない!

ただ、いいですか、いいですか、先生、夜中に笛を吹くと蛇が出るという理由で、めっちゃ親に怒られただけなんです。

いまだに夜中に口笛を吹いている奴などを見かけると「馬鹿な奴、蛇が出るのに」などと思います。しかし、これが教育です。洗脳ともいえるでしょう。近年、話題になってる他国からの敵対教育などや悪意の塊である他国の日本に対する教科書などを見るにつけて、幼年期の教育は恐ろしいものだと我輩しみじみ思うのです。一度植え付けられた価値観や教育はおいそれと抜けるものではありません。我輩に子供ができ、中学校でテストがあるという理由で夜中に笛を吹いていると、蛇が出るからやめなさい、と怒るかもしれません。怒らないにしろ、心の片隅にザザッと波が立つでしょう。罪悪感にも似た、このナニカ!それはとてもとても恐ろしく愚かで、またミラーな写し絵です。

他にも、夜中に蜘蛛を殺すな、夜中に爪を切るな、などの夜中限定エディションの御法度が我が家にはありました。それは今も我輩の心の中に根付いていて、夜中に部屋の中で小さな蜘蛛を見かけたりすると、ぐぬぬぬ、8時か…命拾いしたな、さあ、お逃げ、と蜘蛛を撃滅できない自分がいます。蜘蛛を夜中に殺してはいけない理由は分かりませんが、夜中に爪を切ってはいけない理由は、親の死に目に会えないということでした。しかし、繰り返し繰り返し、夜中に爪を切ることを諌められるうちに、夜中に爪を切れない体質になってしまいました。それも最近では克服しつつありますが、やはり心の中に波は立ちます。でもなあ、もう親元を離れてるし、親の死に目に会えない確率はすげー高い気もすんだけどなあ、とか思いつつ、母上ごめん!と何度も何度も謝りながら爪を切ります。

これは背負わなくてもいい罪悪感などではないかと最近は思います。問題が複雑化しますので、国際問題にまで言及しようと思いませんが、日本人が日本人に背負わなくていい罪悪感を背負わせるような教育に我輩は反対します。

ともあれ、今年の母の日には、何か買って送りますので、母上、今までありがとう。

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形骸PART3


好きな食べ物は、お好み焼きです。

我輩、近い年齢で4人兄弟という幼少期を過ごしたせいで、食物の取り合い奪い合いという修羅道を歩いてきたのですが、その地獄道の道すがらに食べ過ぎた物は成人を超えた今となっては好きにはなれません。鍋一個、ホットプレート一つで大量に作られる食べ物があの火焔の立ち昇る煉獄を思い起こさせるからかもしれません。

その代表例がカレーで、母親はいつも、炊き出しか!と言いたくなるほど鍋いっぱいに大量に作りました。今日はカレーよ、という台詞を、おはよう、こんにちわ、などの挨拶のように使いました。今日はカレーよ、今日はカレーよ、今日はカレーよ、と繰り返すキリング・マシーンと化した母親のせいで、カレーという食べ物が我輩の中で存在しなくていい食べ物になってしまったのです。味は嫌いではないのです。食べれば美味しいのです。しかし、人生という儚くとも短いスパンの中で、もうカレーは要らないや、という諦観にも似た気持ちで我輩はカレーと接しています。

ある日――夕食にカレーを食べた翌日――当時の我輩一家はラジコンカーのジャンプ台のような急勾配の坂の上にある宮殿で暮らしていました。その二階にある我輩の部屋から坂を真下に見下ろせたのですが、明らかに小さな袋をぶら提げて母親が坂を上ってきます。買い物の量の少なさから、ああ今日もカレーか、と我輩が悲嘆に暮れていると、せめてもの味の変化を母親なりに考慮したのか、小さな袋には総菜屋で買ってきたトンカツが数枚入っていました。カツカレーです。その翌日も、小さな袋だけを持って母親は坂を上がってきます。袋にはうどん玉が入ってました。カレーうどんです。カツオ出汁で味を調えたカレーうどんなどという小洒落たものではありません。茹でたうどんにルーをかけただけです。さらに翌日、居間で『はぐれ刑事』の再放送を観ている母親は買い物にすら行きません。その日は原点回帰で具もドロドロに溶けたカレーです。そのような日々が続いた結果、我輩のカレー観が誕生しました。拳を突き上げ、我が生涯にもうカレーなんてなくてもいいんじゃないのか!と言いながら昇天しました。

そんなこんなで天に召された我輩ですが、そういう凄惨な過去のトラウマティック・エクスペリエンスのせいで自ら進んでカレーは食べません。まあ、何だかんだで国民食ということもあり、ちょいちょい望むも望まざるもなく食べる機会があるので食べるのは食べてますけど、嫌いです。食べたら食べたで、美味しいなあ、とは思うのですが、嫌いです。カレーという言葉一つでシナプスが情報をかき漁り、ニューロンをアマゾン川を逆流する海嘯『ポロロッカ』のように遡り、小さな袋を持って坂を上がってくる母親の姿がフラッシュバックして、バックドラフト現象のように脳内で炸裂します。我輩にとってカレーとはそういう食べ物なのです。カレー・イコール・アマゾンという図式が出来上がります。その図式の応用編として、ピラニアを見ても、サッカーのブラジル代表のユニフォームを見ても、浅草サンバカーニバルを見ても、カレーを連想します。嘘です。

母親はホットプレートでお好み焼きもよく作ったのですが、チョー下手で不味く、ベチャベチャしていたのが幸いし、あれはお好み焼きではないという記憶の処理がなされ、今となってもお好み焼きが好物です。定期的に無性に食べたくなって食べるのです。

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形骸PART2


前回、ただ単に食べ物の好き嫌いを書こうと思っただけなのに、冒頭部分が長くなるにつれ、完全なる善の体現者である我輩の血が騒ぎ、あのようになったことを詫びます。言葉が足りないのか、何がいけないのか、伝わらない人には伝わらないのだと改めて学ぶこととなりました。

食べ物信仰の根深さを感じました。おそらく飢餓や飢饉を体験してきた人たちには、どうやっても受け入れられないのだと思います。しかし、頭に花が咲いた知り合いから言われたことが胸に残ります。だったら飲食店で食べきれないほど注文してもいいのか、バイキングやビュッフェで食べきれないほど取ってきても構わないのか、などと目が点になるようなことを言われ、どっこいしょー!と知り合いの頭に咲いた一輪のタンポポを引き抜いてやりました。するとビュウと血を噴き出し、死にました。

良識、です。そこは、良識を持って判断すればいいのです。死んだ人のことを悪く言いたくはないのですが、どこの誰が飲食店で身銭をはたいて食べきれないほど大量の料理を注文するんですか、バイキングやビュッフェで食べきれないほど取ってきてどうするんですか、というよりそもそもバイキングやビュッフェでは多めに作るから残り物は捨てますよ。それはどうするんですか、拾いに行くんですか、何なんですか。誰のせいですか、教育のせいですか、政治のせいですか、風が吹いたら桶屋が儲かる、みたいな感じで、半世紀前にアメリカでバラクーダが人を襲ったぐらいのところから巡り巡って、最終的に転がってきたコーラの缶でズルッて転んで頭を打って、そのとき地面に生えていたタンポポの綿毛が頭に埋め込まれて養分を吸われ、そんな考えを持つようになったんですか、何なんですか、分かりません。我輩、ついていけません。

育った良識が食べ物を一切無駄にしないという考えならば構いません。そしてそれを自ら実践しているのならいいでしょう、しかし――そうじゃないでしょう、貴方も無駄にしている部分があるでしょう、嫌いな食べ物を捨てることがあるでしょう、腐らせ捨てることもあれば、ほとんど残して捨てることもあるでしょう、逆に腹いっぱいなのにも関わらず食べ過ぎるのも食べ物を無駄にしているという意味では同じでしょう、なのに食べ物に関して目くじら立てて人に言える厚顔無恥さはどこからきてるんですか、肛門に咲いた薔薇に養分を吸われすぎなのではないでしょうか、何なんですか、分かりません。我輩、ついていけません。想定の範囲外です。もういいですから、その肛門に咲いたローズ・ガーデンを大事に育ててください。我輩に構わないでください。

そういうわけで、食べ物の好き嫌いの話をしようと思います。我輩、漬物類がほとんど食べられません。弁当についていれば今までの人生で記憶にある限りでは全部、捨てています。仕切りのない状態で御飯の上や端に漬物がある場合は、少し御飯もほじって捨てます。青臭い物や生臭い物も苦手です。あとは特殊なところでガーリックなども得意ではありません。そのままは食べたことがないのですが、何かに入っていても一定量を超えて食べると胸がドキドキします、半日ぐらい。味の濃い鍋物や餃子などを食べあと、しばらく経って胸がドキドキしだすと、おやおや?恋?それともガーリック?また致死量を超えた?などと推測できます。たまに単純に恋のときもあるので難しい話です。

その他に我輩自身もしばらくずっと謎で今は平気で食べられるのですが、中学生の後半ぐらいまで秋刀魚や鯵などの魚が食べられませんでした。切り身の魚は食べられるのです。光物というか青魚だから食べられないのかなどと考えたのですが、釈然としません。鯖の切り身は食べられるのですから。そして、味そのものは大丈夫なのです。美味しいのです。でも、母親が食卓に出すと箸でチョイチョイと摘んで食べたあとは残しました。ある日、ハッと気づきました。原型だ。原型のままだからだ、と。

死体だ、と。死体やん、と。死体をそのままほじくり返して食べることに抵抗感があったのです。多少、焦げ目はついているものの原型がそのままであることに違和感を覚えていたのだと思います。今になって思い返せば、海老を殻のまま塩焼きにしたようなものも美味しいけど虫を食べている気分でした。この話をすると、また人を奇人を見るような目で見たあと、おかしいとか、さもしいとか、神々しいとか、可愛らしいとか、言われますが、いやいやいや、だったらね、君、あんまり大きいのは変だけど、子猫とかが素焼きにされて両手両足をピーンと伸ばした状態でコロンと皿の上に乗せたのを、お食べ、醤油をかけて、と出されたら嫌でしょう?と言うと、それとこれとは違うとか屁理屈を捏ねる。どこが違うんじゃい!って怒ると、しっかり答えない。猫と魚は違うとかしか言わない。君ね、知ってるよ。僕、知ってるよ。猫と魚が違うことぐらい知ってるんだよ。母親の胎内から出てきた瞬間、天上天下唯我独尊って言ったあとの次の台詞が、猫と魚は違うよ、って台詞だったとかなかったとかという男ですよ、我輩は。知ってるんです、それぐらいのことは。海老は虫ではないよ。知ってるよ。でも、我輩の中では似てるってだけですよ。分類したのは知能指数の低い先人たちであって我輩ではないんですよ。海老は足がいっぱいで外見は虫のようだけど海のものだから食べても常識、虫は足がいっぱいあって外見は海老のようだけど樹液を吸ってるから食べるのは非常識、というふうに誰かがどこかで分類したのを我輩に丸投げしただけなのです。御飯、味噌汁、明太子、海苔、死体、というふうに食卓に並んでいる気がするのです、丸々一匹で出された魚が。シュールです。そういうふうに言うと、まーたデジャビュのように、それとこれは違うよ、と何がどう違うのか説明できないくせに凝り固まった既成概念の塊のような下々の者々が我輩を言葉の暴力で追い詰めようとしますが、何回言えば分かるのでしょう。母親の胎内から出てきた瞬間、天上天下唯我独尊って言った次の次の台詞が、お母さん野菜炒めだけとか焼きソバだけを食卓に出して夕食なんて言わないで、と言ったとか言わなかったとかというほどの男ですよ、我輩は。知ってるんですよ、何遍も言わすな、ボケー!

全ての体毛が全部一瞬で毛根ごとフワッて飛び散るほどの勢いで、ケツぶっ叩いてやろうかしら。どれだけ理解力と想像力がないのかしら。言葉が足りなかったかもしれませんが、これには我輩の育ってきた環境なども関係していると思います。幼い頃の我輩は、戦後間もなく、ヨレヨレのTシャツを着た弟と二人で米軍基地の金網に手を捻じ込んで、ギブミーチョコレート、ギブミーチョコレート、と言っていたギブミーチョコレート世代です。近所の川でザリガニやフナを取って遊んだりしました。そのときの、汚い感じで死んで横たわるフナなどが脳内に残っているので、そのあとで食卓で出された原型そのままの秋刀魚や鯵がイメージとしてダブッて嫌悪したのかもしれません。海老にしてもザリガニと似ているという理由で、御節のお重の一角に居座られると、あのバケツいっぱいに捕まえたザリガニを思い出したのかもしれません。さっきは虫と似ていると言ったけれども、色々な情報が我輩の幼い脳に複合的に混在していたのだと思います。




続く――。

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形骸PART1


今まで衣食住の『住』をテーマに日記を綴ってきましたが、今回は『食』について我輩の意見を述べたいと思います。前回予告していた『住』の可塑化材(SRP-L)と気泡混合モルタルをスペースロックシステムを用いて施工するスペースロック工法についてはまた別の機会にしたいと思います。

まず、食べられない物は食べなくていいし、食べきれない物は残せばいいと我輩は考えます。どの世紀を境に崩れ去ったかは覚えてはいないけれど、食べ物信仰のようなものが我輩の中で崩壊しました。仮に今、宇宙人が襲来し、牛や豚や鳥のように我輩が食べられる立場になったとき、別に半分食べて美味しくないし腹いっぱいという理由で残されても仕方ない気がするのです。食べられたくないから食べないで、とは思っても、食べるなら全部食べて、などという考えは微塵も湧いてきません。つまり、牛や豚や鳥に我輩と同じ知能があれば同じことを思うのではないのかと思慮が及びます。ましてや、やった、嬉しい、全部残さず食べてくれたありがとうありがとうありがとうアンドロメダ星人のヒポポヌラ・クルデパロロニアンさん、とはならないのではないか、とスマホをジップロックに入れてストローで空気を吸い出して真空状にして風呂場で動画を見ながら遠いアンドロメダ星雲に住む星人に想いを馳せました。

相手の立場になって物事を考える。
これは大事なことです。よく言われていることです。相手の立場になって考えたとき、どうせ殺されるなら好き嫌いをされて足の部分の肉をちょこっとしか食べてくれなくても、もうお腹いっぱいとほとんど残されても、そんな願望は小便みたいなものではないのかと閃き至りました。そのとき長年抱えていた胸のモヤモヤや食べ物に関しての考え方が一本の線となったのです。幕の内弁当の一角に食べられない物が入っていたとして、それを残したからといってどうなの?食べられると思ってラーメンと餃子を注文したけど餃子を2個残したからといって何か問題が?と思うようになったのです。今までの我輩は、どこか罪悪感のようなものを抱えていたのですが、そう思うようになったとき、やっぱり関係ない、過大で過剰な罪悪感を持つ必要はなし、と人間本位に自分本位に、どこまで行っても人間は人間の立場で物事を考えるべきだと思いました。どうせ殺す者に対して申し訳ない、せめて残さず食べるから、などと下種な考え方をする必要はなし。そんなふうに人間が思っていようがなかろうが、殺される側から見れば理不尽な暴力でしかないのです。

無駄に引っかかる罪悪感は教育のせいです。幼い頃から、どこかで誰かが言っていたことが規範、基準として刷り込まれていたのです。呪縛とでも申しましょうか。原点に立ち返ったとき、それが他愛もないことだと気づきました。今まで我輩が、できる限り、うーうーと唸りながらも残さず食べたとき、幕の内弁当の一角の肉の和え物を我慢して食べたとき、それが根本的に的外れであったとしても心のどこかで頂いた命に対して最後の昇天のお手伝いをしてやった感を持っていたことは否めません。人間本位で自分本位な忌むべき考え方でした。恥じます。

これを他人に話すと、いまだに誰かの呪縛にかかってる者からは痛烈に批判を受けます。あー、はいはい、そうですか、へー、そうですか、我輩から言わせてもらえば、あらやだ?まだそんな価値観で生きていらっしゃるの?ダサッ!へぼっ!くさっ!って感じですね。そういう考え方でいうならば、小食な人間は正しくて、大食漢は存在そのものが悪みたいになるけど、大丈夫?この先、我輩と戦える?今、賛同してるほうがいいんじゃない?あとで赤っ恥かかない?と、大人げなく仕様こともないことで言い争うことになります。呪縛を解くというのは難儀なことです。我輩が神経質にポテトサラダのキュウリを一つ一つどけていることに対して、キュウリの味ってそんなに気になる?って言っただけなのに、変な星人まで登場させて文句を言われた知り合いにとってはたまったものではないかもしれませんが、嫌いな物は嫌いなのです。食べ物信仰の呪縛にかかっている者の中には、生物を飛び越えて植物にまで影響を及ぼしている者がいますが、それは甚だ勘違いの思い違いなのです。植物に意思があったら残さず食べようがそうじゃなかろうが…以下省略なのです。

テレビのバラエティー番組で食べ物を無駄(便宜上「無駄」という言葉を使っただけで無駄かどうかは我輩が考えることではありません)にしたときに苦情の電話をかける人たちには、好き嫌いがないのでしょうか?食べ物を残したことがないのでしょうか?あ、まだ大丈夫だと思ってたけど冷蔵庫の上に置いていたケーキの賞味期限が切れてる、などということが一度たりともないのでしょうか?ですが、我輩は汲みます。苦情が言いたい下々の者々の気持ちを汲みます。分かります。何を思い何に怒るかは人それぞれです。汲みます。ところで、貴方は苦情の電話をするとき、ちゃんと言ってますか?万が一、我輩が苦情の電話をするときは言いますよ。すみません、我輩はポテトサラダにキュウリが入ってる場合、完全に取り払って捨てますけど、これは完全に取り払って無駄(便宜上「無駄」という言葉を使いましたが、我輩にとってはキュウリは最初から必要がない物です)にして完全に汚い塊にして捨てましたけど、完全に今つけてるクレームに相反することを今までもこれからもやりますけど、賞味期限切れの食べ物を捨てたことも一度や二度ではないですけど、食べられるか食べられないかも分からない物を居酒屋で冗談半分のその場のノリで注文して一口だけ食べて完全に残したこともありますけど、今日の放送のあの番組のあのシーンは子供の教育上ちょっと頂けないザアマス、おほほ、って謙虚で敬虔な気持ちで苦情を言います。なぜなら我輩は人の振り見て我が振り直す精神に基づいた人間だからです。人に文句を言う場合は自らを律する必要があるからです。普段、当たり前のように物を盗んでいる泥棒が自分の物を盗まれたからといって「泥棒、許すまじ!」と叫んでいたら、どう思いますか?我輩ならこう思います。うるせえよ、泥棒が!と。まあ、知りませんけどね。苦情の電話をしてる人もきっと、私も小学校のときの給食で食べられない物を机の中に隠して下校途中に捨てたこともありますけど、今の苦情が人の振り見て我が振り直してない行為であることは重々承知していることなんですけれど、今日の放送のあの番組のあのシーンは頂けないゼーット!食べ物だけに頂けない、ぐふふ、げへへ、うげうげ、げろろー、って言ってることでしょう。きっと良識があるなら。良識のある社会人なら、きっと。

いやー、まあ、それにしても食べ物信仰というのは根強いですね。
なのになぜ、必要以上にカロリーを取る大食いとかに文句を言わないのでしょうか?必要以上(便宜上「必要以上」という言葉を使いましたが、それは個人の価値観です)に食べ過ぎている者こそ食べ物を、命を無駄にしていませんか?我輩はそう思います。テレビ局にクレームをつける人たちは、自分の体脂肪率とかを明かした上で言ってるのでしょうか?苦情を言っている者が標準体重を大幅に上回る太ったオバサンとかだと、恐ろしいことだと思うのです。この世は地獄です。手前勝手の自分勝手、つまるところ自分の思いだけで突っ走るパブリック・エネミーなのです。

パブリック・エネミー、許すまじ!
許すまじ、パブリック・エネミー!

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蝸牛


世の中には殊の外、神仏や霊現象を信じる人が多いのだと思い知らされます。信じても別に構わないのですが、たまに茶化し半分の面白半分で占い師の方に占ってもらったりしたとき、守護霊や先祖の霊の話や墓を大事にするという話が出てくると途端に気持ちが萎えます。

はあ、そうですか。でもですね、ウチの家系で立派で裕福な人間がいたという話を聞かないので、死んだあとも別にそんなに僕のことを護ってくれてるとかは思えないんですよね。自分のことで精一杯なんじゃないですかね、死んだあとも。

占い師の方も最初のうちは、うんうん、と話を聞いてくれるのですが、段々と口調が荒くなってきます。

そんなことはない。先祖、御先祖様という存在がなければ、今の貴方はいないのですよ。

いや、言ってる意味は分かるんですよ。僕の先祖が、戦国時代とかに、やー!とか言って槍持って突っ込んでくる敵兵の一撃を、危ね!とか言ってかわして生き残ってくれたお陰で今の僕がいるってのは分かるんです。あのとき、あらよっと!って槍をかわしてなかったら、ここで僕が3000円払って占ってもらうこともなかったでしょう。分かるんです。でも、それは別に12代先の僕のことを想って槍をかわしたんじゃなくて、自分が生き残るためにやったことであって、僕がそのことで感謝とかするのは違うかなあって思うんですよ。

この辺りから占い師の方の顔色が、ん?面倒くさい奴がきたぞ、という顔色に変わります。よく見ると、占い師の方の防衛本能が反応したのか超常現象なのか知りませんが額に『caution』と浮かび上がります。占い師の方が傍らに偶然生えていたハーブを食べているのを見ながら、我輩は言い募ります。

僕は母子家庭で母親のほうの家系を少し辿るぐらいしか先祖のことは分からないんですね。父方のほうは存在も知らなければ名前も知らないし、今さら知りたいとも思えないんですよ。母方のほうの親戚も付き合いがないんでまったく知りません。母方の両親も死んでるんで、どこの誰を大事にすればいいのかも分からないんです。

だから、御先祖様ですよ!御先祖様を敬い手を合わせる、この気持ちが大事なんですよ!

占い師の方が言います。我輩は納得できません。

仮にですよ。仮に僕が今、貴方の言葉を信じて唐突に墓参りをしたり、手を合わせたりしても、何かゲスい気がするんですよ。護ってもらいたいがためにやったみたいな。僕はそういうの嫌なんですね。敬いの感情というのは内から自然に湧いてくるものだと思うんです。高級車とかマイホームが欲しいから神様に手を合わせるのは本来の意味から逸脱してる行為だと思うんですよ。それと同じです。それに僕が祖先の守護霊とやらをやる番が回ってきたら、別に墓参りとかしなくても無条件で護ってやりますけどね、祖先を。自分の子の先の大事な祖先を。出来が悪くて素行が悪くても大事なんで護ります。アルソックよりセコムより。もっと言わせてもらえば、墓参りをしないと手を合わせないと護らん!とかいう先祖なら、こっちから願い下げですね。

ハーブの力で額の『caution』が消えていた占い師の方の額に再び文字が浮かび上がり、今度は激しく点滅しだします。ちょっと怒った口調で名前の画数の話などをする占い師の方の話を我輩は黙って聞きます。そのあとでやっぱり納得できなかったのか先祖と墓参りの話をしだしたので我輩はその言葉を制し、もういいですよ、その話は、と止めます。

最終的には、もう二度とくるな、や、貴方には何を言っても一緒、などと言われ家路に着くのです。
どうやら我輩、占いというものを心の中ではまったく信じていないようです。それでもまた気が向いたら行きます。

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プロフィール

HN:
大崎 皇一
性別:
男性
趣味:
考え中
自己紹介:
悲しいけれど趣味と呼べるモノが読書とか音楽鑑賞とかしか浮かびません。あまり突飛でやったこともないホエールウォッチングとか書くと本当にやっている人が食いついてきて、やっぱりホエーは銀色でルウォッチはユナイテッド北にヨーソローとか専門用語を出されても困るので嘘はつくべきではないと思う。しかたないので、世が世なら、穴を掘り、そこにエイリアンを突き落として土をかけて埋めるという趣味を持っている、ということにしておきます。今の世がそんな世ではないことが、悔しいの一語です。
■著作
放課後のストレンジ-ユージュアル・デイズ (電撃文庫)
放課後のストレンジ〈2〉サムシング・ビューティフル (電撃文庫)
■連絡先
sun_kouichi_prime500◇yahoo.co.jp
◇を@に。

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