今まで衣食住の『住』をテーマに日記を綴ってきましたが、今回は『食』について我輩の意見を述べたいと思います。前回予告していた『住』の可塑化材(SRP-L)と気泡混合モルタルをスペースロックシステムを用いて施工するスペースロック工法についてはまた別の機会にしたいと思います。
まず、食べられない物は食べなくていいし、食べきれない物は残せばいいと我輩は考えます。どの世紀を境に崩れ去ったかは覚えてはいないけれど、食べ物信仰のようなものが我輩の中で崩壊しました。仮に今、宇宙人が襲来し、牛や豚や鳥のように我輩が食べられる立場になったとき、別に半分食べて美味しくないし腹いっぱいという理由で残されても仕方ない気がするのです。食べられたくないから食べないで、とは思っても、食べるなら全部食べて、などという考えは微塵も湧いてきません。つまり、牛や豚や鳥に我輩と同じ知能があれば同じことを思うのではないのかと思慮が及びます。ましてや、やった、嬉しい、全部残さず食べてくれたありがとうありがとうありがとうアンドロメダ星人のヒポポヌラ・クルデパロロニアンさん、とはならないのではないか、とスマホをジップロックに入れてストローで空気を吸い出して真空状にして風呂場で動画を見ながら遠いアンドロメダ星雲に住む星人に想いを馳せました。
相手の立場になって物事を考える。
これは大事なことです。よく言われていることです。相手の立場になって考えたとき、どうせ殺されるなら好き嫌いをされて足の部分の肉をちょこっとしか食べてくれなくても、もうお腹いっぱいとほとんど残されても、そんな願望は小便みたいなものではないのかと閃き至りました。そのとき長年抱えていた胸のモヤモヤや食べ物に関しての考え方が一本の線となったのです。幕の内弁当の一角に食べられない物が入っていたとして、それを残したからといってどうなの?食べられると思ってラーメンと餃子を注文したけど餃子を2個残したからといって何か問題が?と思うようになったのです。今までの我輩は、どこか罪悪感のようなものを抱えていたのですが、そう思うようになったとき、やっぱり関係ない、過大で過剰な罪悪感を持つ必要はなし、と人間本位に自分本位に、どこまで行っても人間は人間の立場で物事を考えるべきだと思いました。どうせ殺す者に対して申し訳ない、せめて残さず食べるから、などと下種な考え方をする必要はなし。そんなふうに人間が思っていようがなかろうが、殺される側から見れば理不尽な暴力でしかないのです。
無駄に引っかかる罪悪感は教育のせいです。幼い頃から、どこかで誰かが言っていたことが規範、基準として刷り込まれていたのです。呪縛とでも申しましょうか。原点に立ち返ったとき、それが他愛もないことだと気づきました。今まで我輩が、できる限り、うーうーと唸りながらも残さず食べたとき、幕の内弁当の一角の肉の和え物を我慢して食べたとき、それが根本的に的外れであったとしても心のどこかで頂いた命に対して最後の昇天のお手伝いをしてやった感を持っていたことは否めません。人間本位で自分本位な忌むべき考え方でした。恥じます。
これを他人に話すと、いまだに誰かの呪縛にかかってる者からは痛烈に批判を受けます。あー、はいはい、そうですか、へー、そうですか、我輩から言わせてもらえば、あらやだ?まだそんな価値観で生きていらっしゃるの?ダサッ!へぼっ!くさっ!って感じですね。そういう考え方でいうならば、小食な人間は正しくて、大食漢は存在そのものが悪みたいになるけど、大丈夫?この先、我輩と戦える?今、賛同してるほうがいいんじゃない?あとで赤っ恥かかない?と、大人げなく仕様こともないことで言い争うことになります。呪縛を解くというのは難儀なことです。我輩が神経質にポテトサラダのキュウリを一つ一つどけていることに対して、キュウリの味ってそんなに気になる?って言っただけなのに、変な星人まで登場させて文句を言われた知り合いにとってはたまったものではないかもしれませんが、嫌いな物は嫌いなのです。食べ物信仰の呪縛にかかっている者の中には、生物を飛び越えて植物にまで影響を及ぼしている者がいますが、それは甚だ勘違いの思い違いなのです。植物に意思があったら残さず食べようがそうじゃなかろうが…以下省略なのです。
テレビのバラエティー番組で食べ物を無駄(便宜上「無駄」という言葉を使っただけで無駄かどうかは我輩が考えることではありません)にしたときに苦情の電話をかける人たちには、好き嫌いがないのでしょうか?食べ物を残したことがないのでしょうか?あ、まだ大丈夫だと思ってたけど冷蔵庫の上に置いていたケーキの賞味期限が切れてる、などということが一度たりともないのでしょうか?ですが、我輩は汲みます。苦情が言いたい下々の者々の気持ちを汲みます。分かります。何を思い何に怒るかは人それぞれです。汲みます。ところで、貴方は苦情の電話をするとき、ちゃんと言ってますか?万が一、我輩が苦情の電話をするときは言いますよ。すみません、我輩はポテトサラダにキュウリが入ってる場合、完全に取り払って捨てますけど、これは完全に取り払って無駄(便宜上「無駄」という言葉を使いましたが、我輩にとってはキュウリは最初から必要がない物です)にして完全に汚い塊にして捨てましたけど、完全に今つけてるクレームに相反することを今までもこれからもやりますけど、賞味期限切れの食べ物を捨てたことも一度や二度ではないですけど、食べられるか食べられないかも分からない物を居酒屋で冗談半分のその場のノリで注文して一口だけ食べて完全に残したこともありますけど、今日の放送のあの番組のあのシーンは子供の教育上ちょっと頂けないザアマス、おほほ、って謙虚で敬虔な気持ちで苦情を言います。なぜなら我輩は人の振り見て我が振り直す精神に基づいた人間だからです。人に文句を言う場合は自らを律する必要があるからです。普段、当たり前のように物を盗んでいる泥棒が自分の物を盗まれたからといって「泥棒、許すまじ!」と叫んでいたら、どう思いますか?我輩ならこう思います。うるせえよ、泥棒が!と。まあ、知りませんけどね。苦情の電話をしてる人もきっと、私も小学校のときの給食で食べられない物を机の中に隠して下校途中に捨てたこともありますけど、今の苦情が人の振り見て我が振り直してない行為であることは重々承知していることなんですけれど、今日の放送のあの番組のあのシーンは頂けないゼーット!食べ物だけに頂けない、ぐふふ、げへへ、うげうげ、げろろー、って言ってることでしょう。きっと良識があるなら。良識のある社会人なら、きっと。
いやー、まあ、それにしても食べ物信仰というのは根強いですね。
なのになぜ、必要以上にカロリーを取る大食いとかに文句を言わないのでしょうか?必要以上(便宜上「必要以上」という言葉を使いましたが、それは個人の価値観です)に食べ過ぎている者こそ食べ物を、命を無駄にしていませんか?我輩はそう思います。テレビ局にクレームをつける人たちは、自分の体脂肪率とかを明かした上で言ってるのでしょうか?苦情を言っている者が標準体重を大幅に上回る太ったオバサンとかだと、恐ろしいことだと思うのです。この世は地獄です。手前勝手の自分勝手、つまるところ自分の思いだけで突っ走るパブリック・エネミーなのです。
パブリック・エネミー、許すまじ!
許すまじ、パブリック・エネミー!
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