前回、ただ単に食べ物の好き嫌いを書こうと思っただけなのに、冒頭部分が長くなるにつれ、完全なる善の体現者である我輩の血が騒ぎ、あのようになったことを詫びます。言葉が足りないのか、何がいけないのか、伝わらない人には伝わらないのだと改めて学ぶこととなりました。
食べ物信仰の根深さを感じました。おそらく飢餓や飢饉を体験してきた人たちには、どうやっても受け入れられないのだと思います。しかし、頭に花が咲いた知り合いから言われたことが胸に残ります。だったら飲食店で食べきれないほど注文してもいいのか、バイキングやビュッフェで食べきれないほど取ってきても構わないのか、などと目が点になるようなことを言われ、どっこいしょー!と知り合いの頭に咲いた一輪のタンポポを引き抜いてやりました。するとビュウと血を噴き出し、死にました。
良識、です。そこは、良識を持って判断すればいいのです。死んだ人のことを悪く言いたくはないのですが、どこの誰が飲食店で身銭をはたいて食べきれないほど大量の料理を注文するんですか、バイキングやビュッフェで食べきれないほど取ってきてどうするんですか、というよりそもそもバイキングやビュッフェでは多めに作るから残り物は捨てますよ。それはどうするんですか、拾いに行くんですか、何なんですか。誰のせいですか、教育のせいですか、政治のせいですか、風が吹いたら桶屋が儲かる、みたいな感じで、半世紀前にアメリカでバラクーダが人を襲ったぐらいのところから巡り巡って、最終的に転がってきたコーラの缶でズルッて転んで頭を打って、そのとき地面に生えていたタンポポの綿毛が頭に埋め込まれて養分を吸われ、そんな考えを持つようになったんですか、何なんですか、分かりません。我輩、ついていけません。
育った良識が食べ物を一切無駄にしないという考えならば構いません。そしてそれを自ら実践しているのならいいでしょう、しかし――そうじゃないでしょう、貴方も無駄にしている部分があるでしょう、嫌いな食べ物を捨てることがあるでしょう、腐らせ捨てることもあれば、ほとんど残して捨てることもあるでしょう、逆に腹いっぱいなのにも関わらず食べ過ぎるのも食べ物を無駄にしているという意味では同じでしょう、なのに食べ物に関して目くじら立てて人に言える厚顔無恥さはどこからきてるんですか、肛門に咲いた薔薇に養分を吸われすぎなのではないでしょうか、何なんですか、分かりません。我輩、ついていけません。想定の範囲外です。もういいですから、その肛門に咲いたローズ・ガーデンを大事に育ててください。我輩に構わないでください。
そういうわけで、食べ物の好き嫌いの話をしようと思います。我輩、漬物類がほとんど食べられません。弁当についていれば今までの人生で記憶にある限りでは全部、捨てています。仕切りのない状態で御飯の上や端に漬物がある場合は、少し御飯もほじって捨てます。青臭い物や生臭い物も苦手です。あとは特殊なところでガーリックなども得意ではありません。そのままは食べたことがないのですが、何かに入っていても一定量を超えて食べると胸がドキドキします、半日ぐらい。味の濃い鍋物や餃子などを食べあと、しばらく経って胸がドキドキしだすと、おやおや?恋?それともガーリック?また致死量を超えた?などと推測できます。たまに単純に恋のときもあるので難しい話です。
その他に我輩自身もしばらくずっと謎で今は平気で食べられるのですが、中学生の後半ぐらいまで秋刀魚や鯵などの魚が食べられませんでした。切り身の魚は食べられるのです。光物というか青魚だから食べられないのかなどと考えたのですが、釈然としません。鯖の切り身は食べられるのですから。そして、味そのものは大丈夫なのです。美味しいのです。でも、母親が食卓に出すと箸でチョイチョイと摘んで食べたあとは残しました。ある日、ハッと気づきました。原型だ。原型のままだからだ、と。
死体だ、と。死体やん、と。死体をそのままほじくり返して食べることに抵抗感があったのです。多少、焦げ目はついているものの原型がそのままであることに違和感を覚えていたのだと思います。今になって思い返せば、海老を殻のまま塩焼きにしたようなものも美味しいけど虫を食べている気分でした。この話をすると、また人を奇人を見るような目で見たあと、おかしいとか、さもしいとか、神々しいとか、可愛らしいとか、言われますが、いやいやいや、だったらね、君、あんまり大きいのは変だけど、子猫とかが素焼きにされて両手両足をピーンと伸ばした状態でコロンと皿の上に乗せたのを、お食べ、醤油をかけて、と出されたら嫌でしょう?と言うと、それとこれとは違うとか屁理屈を捏ねる。どこが違うんじゃい!って怒ると、しっかり答えない。猫と魚は違うとかしか言わない。君ね、知ってるよ。僕、知ってるよ。猫と魚が違うことぐらい知ってるんだよ。母親の胎内から出てきた瞬間、天上天下唯我独尊って言ったあとの次の台詞が、猫と魚は違うよ、って台詞だったとかなかったとかという男ですよ、我輩は。知ってるんです、それぐらいのことは。海老は虫ではないよ。知ってるよ。でも、我輩の中では似てるってだけですよ。分類したのは知能指数の低い先人たちであって我輩ではないんですよ。海老は足がいっぱいで外見は虫のようだけど海のものだから食べても常識、虫は足がいっぱいあって外見は海老のようだけど樹液を吸ってるから食べるのは非常識、というふうに誰かがどこかで分類したのを我輩に丸投げしただけなのです。御飯、味噌汁、明太子、海苔、死体、というふうに食卓に並んでいる気がするのです、丸々一匹で出された魚が。シュールです。そういうふうに言うと、まーたデジャビュのように、それとこれは違うよ、と何がどう違うのか説明できないくせに凝り固まった既成概念の塊のような下々の者々が我輩を言葉の暴力で追い詰めようとしますが、何回言えば分かるのでしょう。母親の胎内から出てきた瞬間、天上天下唯我独尊って言った次の次の台詞が、お母さん野菜炒めだけとか焼きソバだけを食卓に出して夕食なんて言わないで、と言ったとか言わなかったとかというほどの男ですよ、我輩は。知ってるんですよ、何遍も言わすな、ボケー!
全ての体毛が全部一瞬で毛根ごとフワッて飛び散るほどの勢いで、ケツぶっ叩いてやろうかしら。どれだけ理解力と想像力がないのかしら。言葉が足りなかったかもしれませんが、これには我輩の育ってきた環境なども関係していると思います。幼い頃の我輩は、戦後間もなく、ヨレヨレのTシャツを着た弟と二人で米軍基地の金網に手を捻じ込んで、ギブミーチョコレート、ギブミーチョコレート、と言っていたギブミーチョコレート世代です。近所の川でザリガニやフナを取って遊んだりしました。そのときの、汚い感じで死んで横たわるフナなどが脳内に残っているので、そのあとで食卓で出された原型そのままの秋刀魚や鯵がイメージとしてダブッて嫌悪したのかもしれません。海老にしてもザリガニと似ているという理由で、御節のお重の一角に居座られると、あのバケツいっぱいに捕まえたザリガニを思い出したのかもしれません。さっきは虫と似ていると言ったけれども、色々な情報が我輩の幼い脳に複合的に混在していたのだと思います。
続く――。
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